戸隠古道を歩いて五社めぐり〜一の鳥居から火之御子社

 


昨年から行きたいねぇとまこさんと相談していた戸隠。いつものことながら時期は天におまかせしていたわけですが、梅雨明けの6月30日いってまいりました!半期の三十日詣でデス♪

戸隠神社の御由緒>
戸隠神社は霊山・戸隠山の麓に、奥社・中社・宝光社・九頭龍社・火之御子社の五社からなる、創建以来二千年余りに及ぶ歴史を刻む神社です。
その起こりは遠い神世の昔、「天の岩戸」が飛来し、現在の姿になったといわれる戸隠山を中心に発達し、祭神は、「天の岩戸開きの神事」に功績のあった神々をお祀りしています。
平安時代末は修験道の道場として都にまで知られた霊場でした。神仏混淆のころは戸隠山顕光寺と称し、当時は「戸隠十三谷三千坊」と呼ばれ、比叡山高野山と共に「三千坊三山」と言われるほどに栄えました。
江戸時代には徳川家康の手厚い保護を受け、一千石の朱印状を賜り、東叡山寛永寺の末寺となり、農業、水の神としての性格が強まってきました。山中は門前町として整備され、奥社参道に現在もその威厳を伝える杉並木も植えられ、広く信仰を集めました。
明治になって戸隠は神仏分離の対象になり、寺は切り離され、宗僧は還俗して神官となり、戸隠神社と名前を変えて現在に至ります。


公式HPより転載しました。
元々は寺院だったのですね、神道系のイメージでしたが、実際に歩いてみると仏像さまがいたり御堂があったりと、確かに霊場の雰囲気が色濃かったように思います。

5社巡りをどこからスタートするか、いつものようにお尋ねしましたら「一の鳥居」からとな笑い泣き
むむぅ。。。いつものことなのですが、登拝同様、昔からの参道を歩くことになりました。
予想はしていましたが、ね。
戸隠古道のルートは、公式HPに地図があるのでそちらを参考にしました!

というか、今回はその地図しか持っていきませんでした。古道とはいえ整備されているし迷うことはなかろうかとぼけー

一の鳥居苑地の駐車場に車を停めて、ここから歩く計画をたてましたが、朝到着してからのトレッキングはちとつらいので、前日金曜日の夜に東京を出発。
一の鳥居苑地の駐車場で車中泊し、早朝出発することにしました。
駐車場には綺麗な公衆トイレもあるようですし、安心です。
朝7時に出発し、途中お昼休憩をはさんで14時台のバスで駐車場へ戻る予定です。

さて高速インターを降りて、長野市内を順調に走っていましたが、戸隠へ向かっていたのは夜の23時過ぎ。対向車も後続車もなく、真っ暗闇のなかのドライブはなかなか・・・・
運転するまこさんは動物の飛び出しが怖いと慎重でした。
街灯もなかったので、一の鳥居苑地の駐車場の入り口がわかりづらく、ちと迷いましたが無事到着。
一息つく間もなく、明日のために寝ねばというときに、大粒の雨が降ってきました。
「こんな雨音で寝れるかなぁ」とぼやいてた私ですが、まこさん曰く次の瞬間には寝てたそうでぶー
ちなみに朝焼けもキレイだったのですが、なんせ眠くて「わ~朝焼け綺麗だね~」とまこさんと一度起き上がりましたが、再び夢の中へ~
ここは登山口でもあるので、4時半ぐらいから、続々と車がはいってきます。
身支度の方の気配で起きちゃいました。
駐車場はこんな感じ。



さて、出発です!
そうそう、この場所から歩く場合「戸隠古道ウォーキング拓本集印」といって30箇所ある石柱にて拓本をとることができるそうで、石柱がありました。

 
古道の始まりはここから!

今回は5社詣りが目的なので、我々はスルーしました。
それにしても、出だしからテンションあがります。この緑の気持ち良い道♪
 



<一の鳥居跡>
かつては戸隠神社の神域の結界を表す鳥居だったそう。江戸時代の寛政年間(1789〜1801)に大規模な石の鳥居が造られたそうなのですが、弘化4年(1847)の大地震で石の鳥居は倒壊。
その一部は170年の時を経てなお、確認することができます。

倒壊したとはいえ、当時のエネルギーというか、残留思念というのでしょうか。
場のエネルギーはちゃんと残っていましたね。
ここで、先を急ぐ気持ちにスイッチがはいった私。サクサクと足が進みます。他にも理由はあったんですけどね。
緑のトンネル♪


そうそう、拓本の他に「丁石」も設置されていて、古道を歩く目安にもなりましたよ。
と、言いつつ、五社を巡っている途中で数え忘れましたが

「一之鳥居苑地を起点とする戸隠古道を歩く際に、予備知識として知っておきたいのが「丁石(ちょういし)」の存在です。参拝へ向かう人の道しるべとなるよう、1丁(約110m)ごとに石が建てられています。もともとは、江戸時代に建立されたと思われますが、欠けたり、雪の重みで埋まってしまったり、持ち去られたりと、古いものはほとんど姿を消し、多くは比較的新しく設置されたものです。
一之鳥居から宝光社までは43丁(4.7km)、中社までは53丁(5.8km)あり、中社から奥社までは36丁(4km)の道のりがあります。その昔、参拝者を奮い立たせ、五社へと導いた丁石。それらを探しながら歩くのも、戸隠古道歩きの楽しみのひとつです。」出展:ナガノラボ



途中、車道と並行した道もあったり、車道を渡って、迷いかけたりしましたが、無事、1社目の「宝光社」に到着です。


ここまでおよそ2時間。
公式HPのMAPの縮尺に惑わされました。笑。
<宝光社のご由緒>
ご祭神
天表春命(あめのうわはるのみこと)
杉の古木の中、270余段の石段を登ると神仏習合時代の面影を残す荘厳な社殿があり、その荘厳さは多くの信者の尊信を集めています。
祭神は中社祭神の御子神様で、開拓・学問技芸・裁縫の神、安産の神、女性や子供の守り神として御神徳があります。
公式HPより転載しました。

さて、こちらは御由緒にあるとおり心して登らなければいけない急な石段があります。
2時間歩いたあとの急な石段で息があがりましたが、無事拝殿に到着。
呼吸をととのえ、おまいりさせていただきました。
柔らかい雰囲気を最初に感じましたが、そのあとは貫くような風が吹いてハッと見上げると、キラキラとしたエネルギーに包まれました。
ここまで来れた御礼をしてメッセージをいただきます。

私は神社仏閣を訪れる時にはいつも何かしら問いかけをしていたり、メッセージをいただけるようお願いしているのです。
基本的には極々個人的なことで、マツリゴトのような内容はいただきません。
ここでは、身体に関することをアドバイスいただきました♡
 

御朱印をいただいたら、2社目の「火之御子社」へ向かいます。
神道



途中「伏拝」という御神木と石碑がありました。



説明書き
室町時代の古書に「御正体飛来の処、伏拝と称す」と記しています。
天暦年中(990年頃)阿智の祝部(神主)が宝光社のご祭神・天表春命
(あめのうわはるのみこと)を奥社に合祀しました。
康平元年(1058)天表春命の御正体が、この地に飛来し、「奥社は女人禁制にして冬は登拝が困難である。この地は四季を通じて老若男女がお参りできる。社を建て我を安置せよ。」
と申されました。里の人々は、この御神意によって宝光社を建立し御正体をお祀りしたと伝えている。
 ・・・とのことでした。
この御神木からは思いがけずアニマルコミュニケーションのことについてアドバイスをいただけました。
実は、古道の山道を歩いているときに、目の前を狐さんらしき動物が横切ったのですが、そのときはびっくりしてメッセージ受け取れなかったのです。
もう一度伝えてくださったことに感謝。周辺の山の木々、生きものにもありがとうと言いつつ先に向かいました。



2社目「火之御子社」に到着です!
<火之御子社の御由緒>
ご祭神
天鈿女命(あめのうずめのみこと)
高皇産御霊命(たかみむすびのみこと)
栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)
天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)
承徳二年(1098)頃の創建で、岩戸の前で舞われた天鈿女命が主祭神で他に三柱の神様をお祀り申し上げております。
戸隠山の神様が神仏習合の当時も、このお社だけは神社として終始しておりました。戸隠神社太々神楽は、この神社に仕えていた社人によって古来より伝えられ現在に至っております。舞楽芸能の神、縁結びの神、火防の神として尊崇されております。
近年は参拝される方が多く、境内には樹齢500年を超える『夫婦の杉(二本杉)』と有名な西行桜があります。公式HPより転載しました。

ここだけは終始神社としてあったのですね。他の4社とは違い顕光寺とは関係がないんだそう。
無人の神社なので、余計にかもしれませんが、しんとした静けさと、鳥居のすぐそばが車道にもかかわらず、御神域と自然の領域、人の住む領域がはっきりと区切られていました。
ここでは、わけあってメッセージは頂かず御礼だけお伝えしてきました。